国立大学を卒業し、作業療法士として病院に就職。その後三度の転職を行い、現在は総合病院にて作業療法士として勤務しつつ、ブログや弾き語り配信を通して副業も行っています。
外はすっかり寒くなりました。
秋といえば読書の秋にスポーツの秋、食欲の秋。
秋は何かと楽しみの多いシーズンだと感じています。
僕はとある小説を読んでいました。
【夢をかなえるゾウ4 ガネーシャと死神】
という本です。
この小説には「死」というテーマを取り扱っていました。
人は死と向き合った時、どのように考え、どのように行動すべきなのか。
主人公の前にふと現れた神様のガネーシャは一緒に寄り添いながら話していました。
この【夢をかなえるゾウ】シリーズは1から3まで出版されており、僕は全て読んできました。
しかし今回のシリーズは読んでいてとても感銘を受けました。
今日はこの本を読んで率直に感じたことをお話しさせていただきます。
参考書籍
いつも忘れがちな存在、しかし実は身近に隣り合わせ
人生は誰もが平等に死という終末を迎えます。
今を生きている人誰もが死という目的地に向かって歩いています。
しかし僕たちは日頃から終わりを意識して生活しているでしょうか?
僕も含め、そのように感じている人は少ないように感じます。
というものの、日常があまりにも身近すぎるために、日頃から死を意識することは少ないように感じています。
しかし僕は前の記事でもお話しましたが、別れとは身近な存在でいつ別れが訪れるかわからない。
そして別れがいつ来るのかは誰もわからない。
そう思えば、別れの一つである「死」であって、実は身近な存在なのではないかと思うのです。

自分やその親族が死なないにしてもニュースや新聞、世界を見れば、その日のうちに誰か一人はこの世を去っています。
今この瞬間だって死と向き合っている人だっているはずです。
死とは悪いことなのか?
この小説に多く取り上げられていたのは死の向き合い方でした。
ニュースやマスコミによく取り上げられている死は悲しく、悪いことのように取り上げられています。
夢をかなえるゾウの小説では死神が現れます。
死神はこう言います。
「死は人生の終末ではない。生涯の完成である。」Byマルティンルター
この「生涯の完成である」という表記がとても印象深かったです。
そう思うと、僕は死というものはどこかしら尊いものなのではないかと感じました。
ニュースやマスコミで取り上げられるような悲しくも寂しいものじゃない。
その人の存在を美しくしてくれるもの。
少し表現が難しいですが、そんなイメージを持つようになりました。
死と感情と向き合うには?
またそこには身近な死に向き合った際の感情も鮮明に描かれていました。
誰もが死ぬ存在なのにどうして人は悲しいと思うのか。
それは「奪われてしまう」と思ってしまうからだとガネーシャは言います。
いよいよ死という事実に直面した時、なぜ人は悲しむのか。
それは、その人の生きるはずだった未来が奪われてしまった、また身近な人と生きるはずだった未来を奪われてしまったかのように感じてしまう。
だから悲しいのだと言っているのです。
この描写にはすごく印象が深かったです。
これが本当なのであれば、僕たちは死そのものが怖い、悲しいと思うものではなく
奪われてしまうことにあると思うのです。
そうなると奪われてしまうような思いとは、いったいどんな状況なのか。
それはやるべきだったことをやらずに終わってしまう後悔であると思います。
身近な人への感謝、本当にやりたかったこと、健康でいる自分のありがたさ
しかし僕は反対に、奪われてしまうようなものでなければ、死というものは受け入れられるものではないかとも思います。
ではどうすれば死を受け入れられるのか。
僕は今を一生懸命に生きることだと思います。
僕は未来でもなく、過去でもなく
今だけに集中して今を一生懸命に生きること
これこそが死を受け入れることができる唯一の方法であると僕は思います。
これはアドラー心理学にも述べられているのですが
人生における最大の嘘とは、今を生きないことである。
出典:嫌われる勇気 「自己啓発の源流 アドラーの教え」
とおっしゃっています。
明日があるから。まだやるのは時期尚早だから。また今度やればいい。
やるべき行動を後回しにする行為は今を生きない典型的な生き方であると思います。
そうして生きていくうちに、突然に死に近い状態になってしまったとすると…
きっと後悔の念に苛まれるでしょう。
自分の本心と真正面に会話してみる。
そして本当にやりたいことは何かを聞いて、今すぐ行動してみる。
仮に明日急に生が終わってしまっても、後悔しないくらい行動する。
これが今を一生懸命に生きるということだと感じています。
まとめ:死が身近な存在であるからこそ今を生きる
これは持論ですが
死という別れはあまりにも身近な存在だから意識することは少ない。
しかし死はいつだって身近な存在で、明日にはもう訪れているかもしれない。
それは自分だけではなくて周りにいる人だってそう。
両親、兄弟、友人、近所の人、テレビに映る有名人
誰だって明日が生きている身であるとは限りません。
でも、だからって未来を悲観することはないと思ってます。
なぜなら未来なんて言葉があるだけで、まだ存在していません。
あるのは今だけです。
結局、今を一生懸命生きることしか僕たちにはできないからです。
今を精一杯生きることができれば、明日急に終わりを迎えたからって後悔してしまう事は無いのではないかと思います。
誰がどう思おうと、どう言われようと、周りがどんな状況だろうと構わない。
僕は今を一生懸命に生きるだけ。
そんな言葉を神様のガネーシャは伝えてくれたように感じます。