こんにちは。kazuです。今日も皆さまお疲れ様です。
外は随分暑くなりましたね。外出自粛が続く中、皆様は体調は崩されていないですか?
今日は題名の通り、自分の過去の苦しんだ経験についてお話させていただこうと思います。
実はこのことについては投稿するべきかどうかについて非常に迷ったのですが、この病気を通して新しく見えてきた世界もあったのも事実です。
もしかつての僕と同じように苦しんでいる方がいらっしゃれば、ほんの少しでも手助けになるのではないかと思い、投稿に至りました。
僕の周りにも、自分の正義感と闘いながら、時には身を削ってでさえも頑張りすぎてしまって、心身共にボロボロになってしまう人がいます。
そんな方々が自分の身近にいらっしゃると聞き、自分の経験がこれからの生き方の少しでもヒントになればいいなと思い、今回はこう言ったお話をさせていただく形となりました。
僕は一昨年の秋に「適応障害」という心の病気を発症しました。
適応障害とはストレスが原因で引き起こされる感情や行動の症状によって、仕事や学業などの社会的機能が大きく阻害されたり、困難になっている状態のことを言います。
参考 URL:https://doctorsfile.jp/medication/348/
僕の場合、以前働いていた職場によるストレスが積み重なった結果としてこの病気になりました。
今回は僕が適応障害になった経緯をお話させていただきます。
多忙で休む暇もなかった大学病院勤務時代

当時の僕は大学病院で勤務していました。
入職前は、数々の患者様に役に立って感謝されているキラキラした自分を想像していました。
難しい疾患を持った方々にも最後まで責任を持って、生きる希望を持ってもらえるような作業療法を提供したい
そんな思いで厳しい選考も突破し、やっとの思いで入職を果たしました。
しかし現実は甘くはありませんでした。
職場の周りには修士、博士号持ちで、数々の論文投稿や発表経験もある全国的にも名の知れた名セラピストばかり。
職場は根強い上下関係があり、作業療法士の研修生で学士しか持っていない自分は上層部の人に話しかけても聞く耳を持ってくれないか
「忙しいのに話しかけてくるな!」
と強く反発されるかでした。
いつも上司の顔色を伺いながら日々怯えるように仕事をしていました。
また、想像以上に多大な激務にも追われていました。
昼休憩の時間は全て食事をしながらのカンファレンス参加に当てられたため、リラックスできる時間はありませんでした。
また業務が終わっても、論文抄録やセミナーに参加する必要があった為、帰宅時間が21時~22時になることが日常茶飯事でした。
それでも特に苦しかったのは、担当した患者様が亡くなる場面を何度も経験したことです。
当時はがんリハビリテーションを始めて間もない時期であり、がんの患者様を担当した数も経験も浅い状態でした。
そんな自分は、病院内でまるで当たり前かのように患者様が亡くなる状況に日々ショックを受けており、心は次第に疲弊していってました。
こんな現実に泣き崩れる暇もなく、次から次へと担当患者が振られる毎日でした。
そしてある日、研修生の課題である部門内での症例発表の日が近づいていきました。
ただでさえ業務が多忙であった中での発表であった為、職場で書類作成に回せる時間などはなく、自宅に持ち帰って仕事をしていました。
平日の睡眠時間を削りながら、休日もほぼ全ての時間を資料作成にまわし、入念に準備をして発表を行いました。
しかし周りからは批判の嵐。
「資料の経過がわかりにくい。」
「ちゃんとPTと連携はしたのか?」
「他のADL(日常生活動作)も支援できなかったのか?」
「この介入が有効だったという根拠はあるのか?」
そんな厳しい意見ばかりでした。
とどめの一発が発表のフィードバックを受けた直属の上司から
「あなたのリハビリは作業化しているよ!」
でした。
当時はもはや言われている意味が理解できませんでしたが、今思えばこの言葉は
「こんな流れでなんとなくリハビリをするな!もっと考えてリハビリをしなさい!」
という意味だったと思います。
しかしこの言葉を受けた時、僕の中で何かが切れるような音がしました。
長い糸がプツンと切れたかのように。
これは本当に音が聞こえました。
その翌日の朝、僕はベッドから起き上がることができず、何とか起き上がったものの身体は鉛のように重く、今にも倒れそうな状態でした。
職場に着いたものの吐き気と動悸が止まらず、上司に報告して早退しました。
近くの心療内科に受診し「適応障害」との診断を受けました。
続く…